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[C1248] 排除の論理とは

村八分ということばがあります。
特定集団に帰属できない、させない。ローカルなコミュニティでも排除の論理は働く。自治会だって、戦争中は非国民監視の機能をもっていた。
集団が小さくても、権力をもつと、その使い方如何によっては、その刃はどこに向くかはわからない。
この間、自治会のまちづくり委員長と話をした時に、地元の公園のホームレス問題の話になった。
住民は塀を造れ、フェンスを張って鍵をかけろ、と望んだが、委員長はホームレスと話をして、みんなのものだから私有してはいけないと主張して、退去に同意させたという。彼は、誇らしげに語っていたが、ホームレスが公園から退去させられた結果には変わりがない。
  • 2007-07-08
  • 投稿者 : tempei
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  • 編集

[C1249]

ローカルにもナショナルにも、排除の論理は常にどこでも働くということでしょうかねぇ。排除の論理と「愛」の問題が、どのように接合してるのか、それともいったん切り離して考えるべきものなのか・・・やはりよく分からないです。

ローカルなコミュニティの中で、ナショナル/ローカルな排除の論理が自由自在に組み合わされて発揮されるケースもあるわけですよね。問題は、その権力の構図と郷土愛の問題がどのように関係してくるのか・・・ということなんですが、どうなんだろうか。。。

んんんん・・。

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愛国心と郷土教育

神戸新聞の夕刊で、内田樹が「常識的!」という連載をやっている。最近、「離反を招く“愛国教育”、“非国民”に向く憎悪」というタイトルで、愛国心や愛国教育を取り上げた文章がぐっと来た。

内田は、「愛国心」は国民を離反させこそすれ、国民を統合するものではないと言う。「愛国」を口にした瞬間に、「愛国」の定義を異にする同国人への激しい憎しみに捉えられ、「非国民」に対する不寛容は絶頂に達するという。

内田の論理のミソは次の通り。

・・・・・・・・・・・
「愛国者」たちは「わが国は世界に冠絶する素晴らしい国である」という彼らの信念と「あまりぱっとしない現状」の間の矛盾を埋める方法として、ただ一つの解釈しか知らない。それは国民の一部(あるいはほとんど全部)が、「祖国の卓越性を理解し、愛するという国民の義務」を怠っているからであるという解釈である。この解釈に従うならば、全国民に祖国の卓越性を理解させ、愛国の至情を行動によって示させ、それに同意しないものには罰を加え、「非国民」として弾劾すべし、という政治的行為が論理的には帰結される。
(2007年7月7日神戸新聞夕刊掲載の内田樹「常識的!」より引用)
・・・・・・・・・・・

そこで内田は、排除を伴い国民を離反させる「愛国心」という言葉を使わないという戦術を提起する。ただし、僕が思うに、仮に「愛国心」という言葉を使わなかったとしても、不文律としての愛国の名の下で行われる排除の論理は着実に強化されつつある。日の丸・君が代は、既に「まつろわぬ者」への踏み絵、「非国民」のリトマス試験紙としての役割を与えられつつある。

僕は、灘愛に溢れた灘主義者が結成したヒミツ結社に出入りしているが、そこでは「全灘区民が灘を愛さねばならない」という灘原理主義は標榜していない。灘好きな人、灘を楽しむ人をもっと増やすにはどうしたらいいのか、頭を捻って体を動かして悩みながら、ナダタマを更新するのである。

関西では「生まれる前から阪神ファン(※「両親も爺さん婆さんもタイガースのファンやねん」の略)」と曰う御仁ばかりだが、阪神ファンでなくとも甲子園球場でプロ野球観戦は可能だ。今まで、タイガースの話題についていけずに寂しい思いをしたことはあるが、阪神ファンであることを強制された経験はない。
(嫌な目に遭った人は結構いるかもしれないけど・・・)

ところが、日本という国への「愛国心」が持ち出されたときの、この息苦しさは何だろう。それこそが内田の言う「愛国心」がもたらす反統合の作用なのだろうか。「ジャイアンツ愛」を標榜した原・巨人が低迷した理由と同じなのだろうか。野球の喩えは冗談としても、どうも「愛国心」という言葉には有形無形の暴力が伴っているような恐怖感がある。できれば触れたくないという気分すら沸いてくる。

ナショナリズム研究者でもない僕がなぜ、愛国心やナショナリズムの問題にこれほど執心しているのかと言えば、卒論で「場所への愛着」を取り上げて以来、人と場所との見えないつながりを研究しているからだ。どの瞬間に「地域への愛着」が「国家への愛着」にすり替わるのかを明らかにしなければならないと常に考えている。

『トポフィリア』を著したイー・フー・トゥアンが正面きって取り組まなかった、「場所への愛着」と「愛国心」の関係を明らかにすることは、自分の中でも大事なテーマになっている。僕が「場所への愛着」について学会発表したとき、会場にいた千田稔から「場所への愛着とナショナリズムの関係を考える必要がある」というコメントをもらったのが忘れられない。とにかく、大事なテーマなのだ。

最近の自分の研究では、郷土教育と防災教育の関連に関心を寄せているのだが、「災害から地域を守る」というテーマは、まさに郷土意識や郷土愛の基層を成す可能性がある。災害を克服するために貢献した功労者の命懸けの取り組みを学び、感謝の気持ちを持ち、過去の努力の結晶として現在の地域を認識する。そうして地域を誇りを持つことが目標とされる。これは、国家スケールでも同様の教育プログラムが用意され、同様の効果を得ている。

過去を学び、先人の努力に感謝し、郷土や国家に誇りを持つ。内容は常に政治的に取捨選択されていくのだけれど、学ぶこと自体は悪いことではないようにも思う。(もちろん、皇国史観でも自虐史観でも、どちらでも「選択」が可能だけれども・・・)

しかし、そうやって培われたナショナルなアイデンティティだけが「排除の論理」に荷担することになるのはなぜだろうか。内田の議論では字数の関係からか、愛国教育=排除の論理と一足飛びに語られてしまっていて、イコールで結ばれている根拠は「歴史が証明している」「論理的に帰結する」としか示されていないのだが、ローカルな郷土認識やアイデンティティは、郷土愛=排除の論理として結びつかないのだろうか。「非国民」と糾弾される恐怖があったとしても、「この非灘人がっ!」「反・関西人め!」と誹られるイメージはしにくい。内田の文章からは、その理由は分からない。とにかく、国というスケールだけが特別な存在らしいのだ。

ところで、以前もどこかで書いたことがあるが、僕は「日本を好きじゃない人も安心して暮らせる日本」は好きだが、「日本を好きな人しか安心して暮らせない日本」は嫌いだ。

まして、国民同士がお互いに「国を愛しているかどうか」を確認し合う状況なんて、気持ち悪くて仕方がない。郷土に誇りを持てるような「地理」や「歴史」や「公民」の教育を充実させるというだけでは不満なのだろうか。闇雲に「愛国心」を持たせる教育と、「共に生きる社会とは何か、日本とは何か」を考える力を育てる教育のどちらが優れているのか、答えは言わずもがなではないか。

なぜそこまで学校教育にこだわるのかと言えば、グローバル化が進み、市場や文化やメディアや社会関係においては、既に「日本」を意識することが希薄になりつつあるからだ。教育の分野だけが「日本」を純粋培養できる最後の砦であり、聖域となってしまったのだ。だから、教育の現場において「日本」を最前面に打ち出していかなければ、日本は崩壊してしまう・・・と本当に真剣に真面目に冗談抜きで考えているのかもしれない。冗談みたいだけれど・・・。

しかし、「国益」があるならば「地方益」だってある。「民族益」や「会社益」だってあるのだ。そして、「国益」と「地方益」が反することだってある。国と自治体が対立することもしょっちゅうだ。「愛国心」教育の強化は、国の危機感の表れだとしよう。しかし、「愛国心」によって国が地方をコントロールする力を強め、「愛国心」によって社会がバラバラにされるのであれば、これほど「国益」に反することはない。

「愛国心」が振り回されるのは、国家の側の分の悪さの現れと解釈するのは穿った見方だろうか。「愛国心」がもたらす軍国化も心配だが、それ以上に「愛国心」の持つ暴力による国民の分断と対立、さらに「郷土益」が削られることなんかを心配する必要がありそうだ。

その上で、自分の研究テーマに立ち戻りながら考えてみる必要があるわけだが、とりあえず今日はここまで!

2件のコメント

[C1248] 排除の論理とは

村八分ということばがあります。
特定集団に帰属できない、させない。ローカルなコミュニティでも排除の論理は働く。自治会だって、戦争中は非国民監視の機能をもっていた。
集団が小さくても、権力をもつと、その使い方如何によっては、その刃はどこに向くかはわからない。
この間、自治会のまちづくり委員長と話をした時に、地元の公園のホームレス問題の話になった。
住民は塀を造れ、フェンスを張って鍵をかけろ、と望んだが、委員長はホームレスと話をして、みんなのものだから私有してはいけないと主張して、退去に同意させたという。彼は、誇らしげに語っていたが、ホームレスが公園から退去させられた結果には変わりがない。
  • 2007-07-08
  • 投稿者 : tempei
  • URL
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[C1249]

ローカルにもナショナルにも、排除の論理は常にどこでも働くということでしょうかねぇ。排除の論理と「愛」の問題が、どのように接合してるのか、それともいったん切り離して考えるべきものなのか・・・やはりよく分からないです。

ローカルなコミュニティの中で、ナショナル/ローカルな排除の論理が自由自在に組み合わされて発揮されるケースもあるわけですよね。問題は、その権力の構図と郷土愛の問題がどのように関係してくるのか・・・ということなんですが、どうなんだろうか。。。

んんんん・・。

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