Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

-件のコメント

コメントの投稿

新規

投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

-件のトラックバック

トラックバックURL
http://aiai813.blog50.fc2.com/tb.php/1072-3fc55e09
この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

記憶の場所と場所の記憶のための試論1

(研究のために書いたもので、大変長くて読みにくい文章です。)

これまで、このコトについて未整理のまま考えてきたことに気がついた。我ながら、自分の思考の悠長さ加減に腹が立つ。記憶の場所と、場所の記憶の違いについて、とりあえず試論的な文章を書いてみる。元はと言えばルフェーブルの「表象の空間」と「空間の表象」から、安直に発想しただけなんですけどね。。。

まず、言葉の定義を試みる必要があるのだが、最近では、場所とは何か?という問いが成立しなくなりつつあるのではないかと考え始めている自分もいる。つまるところ場所とは、対象を見つめるわたしの視角のあり方に過ぎない。目の前にある空間や土地を場所と言い換えたところで、当然のことながら「それ」自体は何も変わらない。分析概念となった場所という言葉を用いて「場所は大事だ」と言ったところで、それは既に意味をなさないのではないか。

かつては人文主義地理学の立場から「場所への回帰」が唱導された。そこで想定された場所とは、ノスタルジックでヒューマニスティックなものであり、近代化する都市空間を批判するために「古き良き場所」が設定されたのである。均質かつ交換可能な都市空間が無限に増殖する事態を批判するために場所の真正性が説かれた。自由かつ不安な近代的空間に対して、親密で安心感のある伝統的な場所が据えられた。近代社会と伝統社会の二元論の中に、空間と場所が位置づけられてきたのである。

ところが、ノスタルジックでヒューマンな場所という設定は、本質主義的であるとの徹底的な批判を受けて崩壊してしまった。1980年代以降、社会科学全般に押し寄せたポストモダンや構築主義の洗礼を受けて、場所は「分析視角」としての意味を与えられた。その結果、「正確な地図や数値で表すことができる空間」ではないもの・・・というように、消去法的にのみ立ち上がってくる概念となったのではないか。そして、場所の中には「それ以外の視点」の要素が無闇矢鱈と詰め込まれ、場所とは何かを説明できなくなってしまったのではないかという気がしてならない。

まあ、そんなことを愚痴愚痴言っても仕方ないので、とりあえず場所を定義しておかなければならない。上述したように、正確で「科学的」な地図として表される土地の広がりやものの配置ではなく、意味や解釈や情緒を含むものが場所である。さらに権力の作用や支配-被支配の関係の場であり舞台となるものでもある。それは所与のものではなく、社会的に構築されたものである。人間の存在を前提とし、人間の働きかけや作用によって生成し変容し構築されるものである。結局、目の前にある土地のことを指しているのは間違いないのだが、その土地を舞台とした可視不可視、有形無形、有象無象の諸作用を含むもの・・・ということだろうか。

そして本題。場所の記憶とは、ある場所についての記憶のことだ。地域の歴史とか出来事とか、その場所にまつわるいろいろな事柄についての記憶、ということになる。ただし、場所の記憶として指し示される「内容」は、必ずしも元の場所と「同じ」場所であるとは限らない。そのような記憶の「特性」が、記憶概念に着目する所以でもある。

単純に言えば、場所≠場所の記憶ということだ。そこに、場所が変容し再構築される仕掛けがある。それは、「熱い社会」としての近代社会の躍動を捉える視点になるだろうし、メンタルマップやヴァナキュラーな地図と科学的な「透明な地図」、そして現実の場所をつなぐ視点にもなる。

スケールの小さなものから大きなものまで含めて、我々は場所を構築する営みを続けている。トイレの個室から国家・世界に至るまで、数限りないスケールの場所を想像することができる。そして、それらの場所は勝手に変容していくのではなく、我々が手を加えて変容させているのである。場所という考え方は、地理学の世界をとても豊かにさせる考え方だ。正確さ一辺倒の地図ではなく、これを場所として捉えることで、極めて多様な視点を得ることができる。

そうした場所のダイナミズムの中で、場所と場所の記憶のズレや歪みは大きくなる。変化の速度が大きい時代になってきたこそ、そうしたズレが意識化され、常に問題化されてくるのである。それは著しい社会的空間的変化をもたらす大災害に直面した時に、とりわけ顕著に現れる問題でもある。

他の社会科学分野において、これまで記憶について数多くの議論が重ねられてきた。それらの多くが、記憶の再生産と変容に関心を寄せ、権力者と被支配者の記憶のせめぎ合いに注意を払い、記憶の持つ力に驚嘆し、記憶と文化を重ね合わせて見つめてきた。ここで取り上げている場所の記憶は、むしろこれまで議論されてきた記憶論に沿うかたちで展開されるものだろう。

ある場所の記憶。それはある土地についての記憶であり、出来事についての記憶であり、その土地の社会やイメージや歴史や文化についての記憶でもある。地域イメージとして語られ、地域アイデンティティの一部を構成するものでもある。

そして、同時に記憶の場所についても検討する必要がある。記憶の場所とは、記念的場所であり、記憶装置としての場所ということになる。ピエール・ノラ『記憶の場』をはじめとして、顕彰行為を行う場やシンボリックな場所づくりへの関心は、その装置を介在させて構築される「記憶」に着目している。

場所の記憶と記憶の場所は、相互に深く関連していることは言うまでもない。たとえば、こうした分野の研究でしばしば取り上げられる「無名戦士の墓」の問題などは、まさに場所の記憶と記憶の場所の議論が交差しているからこそ注目されるのである。戦争が起きたことや亡くなった兵士のことをどう記憶するのかという問題と、それらが思い起こされる場はどうあるべきなのかという場所の問題は、密接に関連しながらも異なる軸から語られる必要がある。

つまり、場所の記憶と記憶の場所を区別することで、混沌とした記憶の議論の中から場所に関連するエッセンスを析出させることができるのではないかと考えている。

とりあえず、場所の記憶と記憶の場所についての試論はいったんここまで。続きはまた今度。

0件のコメント

コメントの投稿

新規

投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

0件のトラックバック

トラックバックURL
http://aiai813.blog50.fc2.com/tb.php/1072-3fc55e09
この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)

Extra

記事とコメント

プロフィール

aiai

Author:aiai
過去ログです。

月別アーカイブ

ブログ内検索

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。