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学位

本日、正式に博士号(学術)の授与が決定したとの連絡を頂きました。

不惜身命、研究に邁進したいものです。
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口頭試問でした

今日は懸案事項その2、博士論文の口頭試問、第1回目でした。

オーシロ先生が欠席だったたためコメントが頂けず、その点は残念でしたが、前向きかつ建設的な修正作業に取り組めそうな気分です。修正の締め切りは11月半ばで、公開の最終試問は12月に行われる予定です。一昨日の研究会の内容も踏まえながら、「場所と記憶の地理学」の完成度を高めていきたいと思います。

そしてもう一つ、別件で、良い報せがありました。20代最後の夏は、とっても前向きな気分です♪



ところで、経済学部あたりでは麻疹で休講というニュースを見かけました。去年の麻疹騒動の悪夢再び・・・??

7月の予定

7月5日に、研究発表やります。

「場所と記憶の地理学の模索」

もしくは、こっち

発表の方は、博士論文の内容+αって感じで考えているのですが、その+αがどうにも思いつかなくて煮詰まっていて参ってます。発表時間は90分ぐらいあるみたいなのですが、第一線の研究者のミナサマを前に大学の講義と同じ時間ぐらいお喋りするわけです。内容以前に、このプレッシャーに耐えられるかどうか・・・。

ちなみに7月7日には博士論文の口頭試問があります。























... _ _ _ ... ... _ _ _ ... ... _ _ _ ... ... _ _ _ ... ... _ _ _ ... (←SOS信号)

新ネタ発見!

哲学的ゾンビクオリアの話。超おもしろい♪

場所と記憶

「場所と記憶の地理学」というテーマの博士論文を書いてます。

以下、自分用のメモ。

・場所は、現象学「的」な世界として、人間によって意味や感情を与えられる空間であると同時に、個人にとって不可視で不可知な作用(経済や政治)を受ける場でもあり、さらに構造化が展開する舞台であると同時に、それ自体が社会的な構築物である。

・上述のいずれの要素も相互に背反しない。しかも、それぞれに相の異なる要素が相互に干渉したり影響を与えたりすることがある。

・いずれの相における場所も、ひとつの場所を多数の要素が占めることが困難な場合は、「せめぎあい」や「すみ分け」が発生することがある。

・記憶は、そのつど生成され参照される生成的かつ現在的な知であり、状況によって容易に変化する可能性を持つ。

・「場所の記憶」は、場所の表象や言説、物語(テクスト)によって構築されるものであり、そのつど生成される現在的なものでもある。

・記憶によって知覚=認識が成立している側面がある。

・意図するしないにかかわらず、記憶の喚起装置として作用する場所がある。それを「記憶の場所」と呼ぶ。場所に記憶や魂が宿っているように「見える」ことがある。場所の表象換気力と表現できることもある。

・「場所の記憶」と「記憶の場所」が関連することもあるが、関連しないことも多い。

・われわれは「場所の記憶」を参照しながら、場所を経験したり、場所を構築したりする。そのため、場所は、「違和感」や「安心感」などのの感覚を引き起こす。

・記憶が容易に変化するのに合わせて、われわれの知覚や感覚も容易に変化する。そのため記憶は利用されやすい側面も持つ。

・空間や表象を支配することによって、記憶や感覚を支配することもできる。一方で空間をめぐって抵抗することも可能である。(場所をめぐってせめぎあう)

・場所と記憶は、思いのほか近い関係にある。

・記憶を「正確に」捉えるというのは、ある種の語義矛盾。

・近代社会における反省的自己と行為にとって、記憶は参照される知の一つ。場所の影響を受ける記憶も重要な参照項目。ゆえに、場所の記憶と構造化論は密接な関係にある。

・伝統社会、伝統空間、伝統文化における「場所の記憶」と、近代社会、近代空間、近代の文化における「場所の記憶」の違いは明白。

・構造化された空間行動や場所のイメージ、感情と場所の記憶の関係。

・災害対応と災害の記憶の関係。

・災害という出来事の記憶と場所の記憶の関係。場所と記憶の関係。

・忘却と都市空間の関係。都市構造と都市の記憶の関係。



ベルクソンとギデンズ

今日の課題。

ギデンズはシュッツ経由で「持続」の概念を取り出し、ハイデガー経由で時間の概念を導入した上で構造化論の基礎としているという(詳しくはよくわからん・・)。シュッツもハイデガーもベルクソンの影響を強く受けている人たち。ギデンズの「反省的自己」を、ベルクソンの持続と記憶の概念とどの程度つなげながら理解していいのか、ちょっと困ってる。要するに勉強不足なんだけどね。。。

なんでそんな話になってるのかというと、ベルクソンは空間化した時間を批判しながらも空間性を前提とした持続概念を展開していて、つまり、ギデンズの構造化論を空間方面から理解する上でベルクソンの持続と記憶と空間についての理解が重要な鍵になるんじゃないか・・・という目論みがあるから。

実はここにアルヴァックス(この人もはじめはベルクソンの弟子で、後にヂュルケーム学派に心酔してベルクソンを批判するかたちで集合的記憶論を展開する)の集合的記憶論が関係してくるんだけど、どうにもこうした理論の整合性をつけながら、自分なりの「場所と記憶の地理学」のための理論を組み立てていくのはどうにもこうにも、自分には無理なんじゃないかっていうプレッシャーに挫けそうな日々。

今日の課題報告は以上!

闘う哲学者たち

楽しいページがありました。

哲学者が、闘うんですね。

結構勉強になります。

それにしてもベルクソンの記憶をめぐる議論は、奥が深そうです。

やっぱり哲学はちゃんと勉強しなきゃいかんですねぇ・・・。

場所の記憶の時空間性2

記憶の場所と場所の記憶について、ちょっと前に書いた。もう一つ、地理学の立場から記憶に注目する上で重要なことが、記憶の時空間性についてではないかと考えるようになった。

これまで、認知地理学において認知空間の時空間性に関心を寄せる研究が行われてきた。メンタルマップ研究や時間地理学では、認知空間は統計分析の対象として扱うことが可能であり、逆に統計的にが困難な側面については目を向けないような傾向があったのかもしれない。随って、計量的に扱うことが可能な認知空間の時空間性のある側面にのみ関心が寄せられてきたのかもしれない。

だが、たとえば場所の記憶を考えたときに、記憶として示された場所の時空間性に関心を寄せる必要があるのではないか。場所の概念は確かに非計量的な側面を重視するものである反面、まったく時空間性を持たないものではない。むしろ、いつの時代でも時間でもなく、どの場所でもないというような、時空間性を持たない場所の記憶というのは存在しないのではないか。

もう少し具体例を重ねていく。たとえば神仏や神話の世界などの宗教的世界の記憶についてはどうか。固有の時間や場所を含む記憶もあれば、永遠の時間だったりどこでもない場所の記憶という場合もありえる。震災の記憶ならば、発災の瞬間の時間-空間を指す場合や、その後の復興過程や空間的社会的な変化を含む時間-空間の記憶が指し示される場合があるだろう。その記憶の時空間性の違いを捉えることで、記憶の発信者や受信者をめぐる社会関係や政治的状況、文化的時代的背景を探る重要な手がかりになるのではないか。

戦争の記憶であれば、疎開や出征した個人の戦争体験の記憶、広島、長崎、沖縄、東京など場所の出来事としての記憶、そして政府が提示しようとする「公共の記憶」がせめぎあう状況である。そこで指し示される戦争の記憶の時空間性に着目することは、記憶を考えていく上で一つの手段になり得るのではないか。記憶が物語として現れるならば、その物語の時間-空間性に注目することがあるだろうし、物語にならない断片だとしても、集合的-非集合的な記憶の時空間性を意識することで、記憶自体の変化や記憶の主体や舞台となっている場所の状況を捉えることはできないだろうか。

でもまだ、これではまるで考える道具として鍛えられていない感じだ。もう少し掘り下げていかないと。。。

場所の記憶の時空間性

まだまとまりきらないので、ただのメモです。

・場所=時間+空間+社会だと捉えるアプローチがあるならば
・場所の時空間性に着目することで、場所の形成や特性や差異がより明確になるか?
・場所の記憶の違いを時空間性の違いから捉える
・ふるさとと原風景の違いは時空間性の違いとして捉えることが可能かどうか?
・消費される場所に通底する、相似的な時空間性
→個性化を目指す場所の意図せざる結果?
・震災の記憶の多様性には、表象されるも記憶の時空間性の違いが含まれる。
・過去に根ざした時空間性を持つ災害の記憶と、時間性を有さないハザードマップの災害知

記憶の場所と場所の記憶のための試論1

(研究のために書いたもので、大変長くて読みにくい文章です。)

これまで、このコトについて未整理のまま考えてきたことに気がついた。我ながら、自分の思考の悠長さ加減に腹が立つ。記憶の場所と、場所の記憶の違いについて、とりあえず試論的な文章を書いてみる。元はと言えばルフェーブルの「表象の空間」と「空間の表象」から、安直に発想しただけなんですけどね。。。

まず、言葉の定義を試みる必要があるのだが、最近では、場所とは何か?という問いが成立しなくなりつつあるのではないかと考え始めている自分もいる。つまるところ場所とは、対象を見つめるわたしの視角のあり方に過ぎない。目の前にある空間や土地を場所と言い換えたところで、当然のことながら「それ」自体は何も変わらない。分析概念となった場所という言葉を用いて「場所は大事だ」と言ったところで、それは既に意味をなさないのではないか。

かつては人文主義地理学の立場から「場所への回帰」が唱導された。そこで想定された場所とは、ノスタルジックでヒューマニスティックなものであり、近代化する都市空間を批判するために「古き良き場所」が設定されたのである。均質かつ交換可能な都市空間が無限に増殖する事態を批判するために場所の真正性が説かれた。自由かつ不安な近代的空間に対して、親密で安心感のある伝統的な場所が据えられた。近代社会と伝統社会の二元論の中に、空間と場所が位置づけられてきたのである。

ところが、ノスタルジックでヒューマンな場所という設定は、本質主義的であるとの徹底的な批判を受けて崩壊してしまった。1980年代以降、社会科学全般に押し寄せたポストモダンや構築主義の洗礼を受けて、場所は「分析視角」としての意味を与えられた。その結果、「正確な地図や数値で表すことができる空間」ではないもの・・・というように、消去法的にのみ立ち上がってくる概念となったのではないか。そして、場所の中には「それ以外の視点」の要素が無闇矢鱈と詰め込まれ、場所とは何かを説明できなくなってしまったのではないかという気がしてならない。

まあ、そんなことを愚痴愚痴言っても仕方ないので、とりあえず場所を定義しておかなければならない。上述したように、正確で「科学的」な地図として表される土地の広がりやものの配置ではなく、意味や解釈や情緒を含むものが場所である。さらに権力の作用や支配-被支配の関係の場であり舞台となるものでもある。それは所与のものではなく、社会的に構築されたものである。人間の存在を前提とし、人間の働きかけや作用によって生成し変容し構築されるものである。結局、目の前にある土地のことを指しているのは間違いないのだが、その土地を舞台とした可視不可視、有形無形、有象無象の諸作用を含むもの・・・ということだろうか。

そして本題。場所の記憶とは、ある場所についての記憶のことだ。地域の歴史とか出来事とか、その場所にまつわるいろいろな事柄についての記憶、ということになる。ただし、場所の記憶として指し示される「内容」は、必ずしも元の場所と「同じ」場所であるとは限らない。そのような記憶の「特性」が、記憶概念に着目する所以でもある。

単純に言えば、場所≠場所の記憶ということだ。そこに、場所が変容し再構築される仕掛けがある。それは、「熱い社会」としての近代社会の躍動を捉える視点になるだろうし、メンタルマップやヴァナキュラーな地図と科学的な「透明な地図」、そして現実の場所をつなぐ視点にもなる。

スケールの小さなものから大きなものまで含めて、我々は場所を構築する営みを続けている。トイレの個室から国家・世界に至るまで、数限りないスケールの場所を想像することができる。そして、それらの場所は勝手に変容していくのではなく、我々が手を加えて変容させているのである。場所という考え方は、地理学の世界をとても豊かにさせる考え方だ。正確さ一辺倒の地図ではなく、これを場所として捉えることで、極めて多様な視点を得ることができる。

そうした場所のダイナミズムの中で、場所と場所の記憶のズレや歪みは大きくなる。変化の速度が大きい時代になってきたこそ、そうしたズレが意識化され、常に問題化されてくるのである。それは著しい社会的空間的変化をもたらす大災害に直面した時に、とりわけ顕著に現れる問題でもある。

他の社会科学分野において、これまで記憶について数多くの議論が重ねられてきた。それらの多くが、記憶の再生産と変容に関心を寄せ、権力者と被支配者の記憶のせめぎ合いに注意を払い、記憶の持つ力に驚嘆し、記憶と文化を重ね合わせて見つめてきた。ここで取り上げている場所の記憶は、むしろこれまで議論されてきた記憶論に沿うかたちで展開されるものだろう。

ある場所の記憶。それはある土地についての記憶であり、出来事についての記憶であり、その土地の社会やイメージや歴史や文化についての記憶でもある。地域イメージとして語られ、地域アイデンティティの一部を構成するものでもある。

そして、同時に記憶の場所についても検討する必要がある。記憶の場所とは、記念的場所であり、記憶装置としての場所ということになる。ピエール・ノラ『記憶の場』をはじめとして、顕彰行為を行う場やシンボリックな場所づくりへの関心は、その装置を介在させて構築される「記憶」に着目している。

場所の記憶と記憶の場所は、相互に深く関連していることは言うまでもない。たとえば、こうした分野の研究でしばしば取り上げられる「無名戦士の墓」の問題などは、まさに場所の記憶と記憶の場所の議論が交差しているからこそ注目されるのである。戦争が起きたことや亡くなった兵士のことをどう記憶するのかという問題と、それらが思い起こされる場はどうあるべきなのかという場所の問題は、密接に関連しながらも異なる軸から語られる必要がある。

つまり、場所の記憶と記憶の場所を区別することで、混沌とした記憶の議論の中から場所に関連するエッセンスを析出させることができるのではないかと考えている。

とりあえず、場所の記憶と記憶の場所についての試論はいったんここまで。続きはまた今度。

なだからならへ

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ゼミのフィールドワークで奈良・ならまちへ行ってきました。

学部2,3回生を対象とした先生の授業の一環として、フィールドワークをやってまちの写真を撮り、後日、景観や町並みについてお互いにプレゼンをするという取組みをしているそうです。自分としては、先生のおまけみたいな気分で参加。ならまちは楽しい。

自分は半年前にも来たので、ならまちは今回が2回目。半日ほど、ウロウロと歩き回って、団子を食べただけでなく、少しだけ分かってきたような気がしたことがいくつかあった。

奈良は、東大寺や興福寺、春日大社や正倉院を含む「世界遺産」であり、そうした巨大な「観光資源」を抱えた場所だ。

ババババーンと巨大な建造物や仏像が迫り来る奈良で、ほっこり「和める場所」として育ってきたのが「ならまち」だというのが、メディアを通じて垣間見えるこの場所の姿だろう。

古都の中心で開発から忘れ去られた古い町並みは、雑貨屋やカフェとして次々と「再生」されている。こだわりのカフェや雑貨屋さんだけでなく、巨大仏像バババーン系の奈良(?)を観光するついでに、ならまちにも立ち寄ってみたという観光客目当てのお店も次々登場している。

この場所は、奈良の歴史の中でフツフツと醸成されたまちづくりグループ、NPO、学生グループの活動の受け皿にもなっている。古い町並みの「再生」と「活性化」のプロジェクトは、この町は、観光客だけでなく、地域の多様な活動現場としても機能している側面があった。

行政的にはどういう位置づけなのか詳しく分からないが、「これ、ほんまに公開しておく必要あるんかなぁ?」というような「公開建築物」なども複数あった。これは、行政側も何らかの「期待」を寄せて予算を投入していることだろうか。

時間があったので、雑誌やマップに紹介されているエリアを出て、少し南に歩いてみると、観光要素は見あたらない地味な古い町がどこまでも続いていた。

ちなみに、ならまちエリアも含めて銭湯の密度がかなり高く、この地域には「風呂なし木造老朽家屋」が多数現存していることが分かる。当然と言えば当然だが、そういう地域の一部だけが、俄に「活性化」している状態なのである。

ならまちをならまちたらしめているのは何か。そんなテーマが浮かび上がる。今回はウロウロと歩き回っただけだが、ならまちが単独で古い町並みを再生して、「活性化」しているのではないということだけはよく分かった。

折しも、国立博物館で正倉院展を開催中であった。ならまちは大いに古い町並みであるが、東大寺や興福寺の開闢以来千数百年の歴史の重みに比べると、妙にポップで気さくな町であるかの如く映る。

そのコントラストの中でならまちを考えてみる。ならまちを支えている観光客も住民も、その背後にあるであろう行政や「まちづくり組織」などの存在も、バババーン系の奈良とセットで考えてみると、妙に腑に落ちるところがある。

あたかも「大仏の威光が2キロ先まで届いている」かのごとく(?)、現代の世界遺産・奈良に足りなかったものが「自発的」に構築されているプロセスが進行中なのだと理解した。

そんなことをぶつくさと考えながら、後輩のみやもと君と鶴橋で焼き肉を食いながらインドの話で盛り上がったりして、楽しいひとときを過ごした。

牛を食いながらインドの話をするのは、誠にケシカランことだと思う。おかげで、家に帰ったらお腹が痛くてトイレに駆け込んだ。インドの神様のバチが当たったのかもしれない。。。

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半端ない、インドの神様世界

インドから帰ってきて、インドの村でちょっとだけ調べた神様のことをちゃんと勉強しようと、何冊かの本や資料にあたっている。分かってきたのは、付け焼き刃の勉強では、到底インドの神様世界は理解できねぇーっちゅーの!ということだっちゅーの。

お地蔵さんの研究の時もそうだったけれど、宗教や神話の体系はあまりに深く広く、多様であり、ちょっとやそっと勉強しただけではとても歯が立つものではない。

たとえば仏教の始祖であるお釈迦様は、??というヒンドゥーの神様の生まれ変わりであるという。つまり仏陀も仏教も、インドの宗教的世界観の中にきっちり位置づけられているのだ。

ヒンドゥー教というのは、キリスト教やイスラム教のように始祖がいるわけではない。何千年もの間に、外来者の宗教と在来の民間信仰が混合し、統合される歴史をくり返し、あたかも煮詰まったカレーのように極まりながら成熟してきたと言えなくもない。(※インドでは、カレーを何週間も煮詰めたりしないようです。西灘の「はし」さんのカレーは、インドを越えてはるか向こう側に行ってますよ・・・)

地域によっても信仰体系はバラバラで、もっと言えば村ごとに神様の呼び名や祭りや神話が違うなんてのもザラにあるらしい。だから、ヒンドゥー教という体系的な宗教がある、なんて考えない方が賢明だと言われているそうだ。

で、自分が村で見た神様は何だったのかという話。今日買った本の最後の数ページのところに「村の神様は、ヒンドゥー以前の民間信仰が残されたり、形を変えたりしながら祀られている。最近やっと文化人類学等で研究が始められ、その実態が把握されはじめている。女神信仰であるケースが多く、ブラーミン(バラモン)ではなく、下位カーストによって祭祀が行われている点などが特徴である」と書かれていた。

確かに、神様を祀るのはブラーミンの専売特許だと思っていたけれど、村では下位カーストの人たちが自分たちで独自に神様を祀っていた。これはどういうことなのだろう・・・と、現地では考えもしなかった。不覚だった。。。

民間信仰の基本は、精霊信仰だという。これは日本と変わらず、万物に神や精霊が宿っているという考え方だ。日本には八百万(やおよろず)の神様がいるが、インドにも840万の神様がいるらしい。日本の方が、ちょっとだけ神様多いぞ。

そのように万物に宿る神様が、ヒンドゥーの神様世界に吸収され、何千年かけて再構成されてきたわけだ。こりゃ、一朝一夕に理解できるわけがない。

愚痴愚痴言っても仕方ないので、とりあえず、もう少しヒンドゥーの神様と村の神様について資料を集めつつ、インド人の精神世界に迫ってみたいと思う。気がついたら、ビートルズみたいにインドの精神世界に傾倒して・・・なんてことはなさそうなのでご安心を。

郷土の歴史なのか、それとも現在なのか。

※自分向けの研究用のメモなので、推敲してません。わけわかんないところも多いかと思います。あしからず。

副読本の分析の軸をどのあたりに設定したらいいのか、延々と悩みながら合宿から帰ってきて、とりあえず副読本の内容を表にまとめたものをぺらぺらとめくる。とにかく、どうしたらいいのかよく分からないので、表を印刷した紙をぺらぺらぺらぺらするばかり。

うんうん言いながらぺらぺらしてると、災害に関連する記述が、「安全」の章と、「郷土」の章と、どちらか、または両方に掲載されているという違いがなんとなく気になり始めた。

前回は、「過去を学ぶことが防災につながるかどうか」という判断や感覚の違いが副読本の「災害関連記述」を左右するのではないか・・・ということを書いた。

で、今回の「もやもや」では、「安全」の章=現在、「郷土」=過去という区分けができるのではないかというものだ。過去の出来事として紹介される災害記述と、現在の「安全」を守るために「災害の危険性」や対応策を示していくという違いがあるのではないかということだ。

まあ、そういう違いがあるというのは当然なような気もするけれど、「学ぶべき郷土像」が示された副読本の中に、二種類の「災害」像があるということは、ある種の発見でもある。

そんなあたりに注目しながら、改めてぺらぺらしつつ大まかに見ていくと、岐阜県側の自治体では、昭和50年代には「安全」と「郷土」の両方の記述がなされていたものの、改訂が進み平成に至る頃には、多くの自治体で「安全」の項目が消滅し「郷土」の項目において過去の災害が記述される傾向を見いだすことが出来る。

一方で、愛知県側の自治体が作成した副読本では、「安全」と「郷土」のどちらかに偏っていくという傾向はないような印象である。そして、削除されずに残されている「安全」の項目では、新たに地震防災のための備蓄倉庫や新たに造られた雨水貯留施設などについて記述される。伊勢湾台風、東海水害を経て、さらに東海・東南海地震への対応が叫ばれる中で、そうした記述が新たに加わってきたのであろうか。

ということで以前書いた内容を含めると、次のようにまとめることができる。

用水の建造など、自治体のスケールを越えた広域な地域のつながりが「郷土」として示される一方で、合併によってローカルな先人顕彰や地域の被災状況などの記述が削除されていく傾向を見いだすことができる。

また記述内容が全体的に減少傾向にある。その背景にあるのは、市町村合併だけでなく、指導要領の改正による「調べ学習」の重視によって、「知識提供」型の副読本という体裁が必要とされなくなりつつあり、「何を教えるのか」ではなく「どうやって学ぶのか」という内容が重視されるようになったために、記載内容が減少している。

全体的にはそのような流れが見られる中で、副読本における災害記述は、「郷土の歴史」として位置づけられた災害像なのか、「安全」のための災害対応なのか、という二種類に分けられる。

この二種類の災害記述を念頭に置きながら、地域の違いや年代の違いに着目すると、いくつかの傾向を指摘することができる。まず一つは、過去の災害を学ぶことが未来の防災につながる「輪中地域」では、堤防強化や排水機の増設によって災害は過去のものとなりつつあり、災害記述は「郷土の歴史」として示されるという点である。

一方で、非・輪中地域であっても、伊勢湾台風や東海水害、そして来るべき東海・東南海地震への備えとして「安全」の項目において災害が記述されるようになりつつある。ではなぜ、木曽川左岸の御囲堤で守られて、恒常的に水害に危機に曝されてきたわけではない愛知県側の副読本には、そのような「安全」の項目に災害記述が掲載され、一方で輪中地帯として知られる岐阜県側の木曽三川流域では、「郷土の歴史」として災害が位置づけられて副読本に掲載されがちであるという傾向が見られるのであろうか。

これは推測に過ぎないが、災害の危機意識が極めて短いサイクルやスパンによって構築されていくからではないだろうか。ある意味で「災害を乗り越えた」という感のある岐阜県側の輪中地帯では、新たな災害の危機を啓発するような内容は盛り込まれず、現代における「地域の安全」の項目から災害関連項目は削除される。一方で、東海水害や東南海地震等の危機を身近に感じている愛知県側では、「安全」の項目における災害関連の記述が充実していく、というようには考えられないだろうか。


もちろん、副読本の記述の分析だけから、「災害への危機意識が醸成される時間的サイクル」について論じていくことができるのかどうか、まるで自信はない。でも、この点に関してもう少し深めていけるのではないかという気がしている。もうちょっと頑張ってみようと思う。

郷土学習における「災害の記憶」と「防災意識」の乖離


郷土教育の研究だったり、社会科副読本そのものの研究だったりするならば、わりと単純な話になるのかもしれないけれど、今回の調査に限定した関心から言えば、「災害の記憶と郷土教育の間にはどのような関係が存在しているのか、またはどのような関係が取り結ばれる可能性があるのか」という点が重要になってくる。

正確には、災害の記憶と防災教育と郷土学習の三者の関係がどうなっているのか?今後どうなり得るのか?ということが大事なのだ。副読本の記述を通じて、それらを明らかにすることが出来ないかというのが、今回の研究の主旨である。

そもそも、なぜ副読本なのかという疑問もある。だが、逆に言えば、「自分たちの暮す地域のことを知る」ことができる手段というのは、副読本ぐらいしかないのではないか、という言い方もできる。

ここでは大げさに郷土学習とか呼んでいるけれど、「自分たちの暮す地域のことを知る」ことができる場面というのはそんなに多くない。家庭内で親や祖父母からの伝承、または子ども社会の中で共有される知識というのはあるかもしれないが、よっぽどの郷土史マニアや地理マニアでなければ、自分の住む地域や自治体のことなどあまり詳しくない。

もちろん、地域の伝統的なお祭りに参加したり、住民組織と何らかの関わりをもっていれば別かもしれないが、そういう状況というのは、既に一般的なケースとして想定しにくくなっているように思える。また最近では総合学習などで子どもたちが地域社会に出る機会が増えているのかもしれないが、総合学習のテーマは多岐にわたり、「地域を学ぶ」ことに内容が限定されているわけではない。

以前書いたかもしれないが、だからこそ制度化された学校教育の中で用いられる社会科副読本というのが「唯一」とも言える郷土学習の「担保物件」なのである。

実際に副読本がどのように使われるのかという部分については、現場の先生の裁量次第ということになるが、副読本の中身自体には、その地域が「地域の何を子どもたちに学ばせようとしているのか」という姿勢が透けて見えてきそうな気がする、ということで副読本の内容を調査しているのだ。

そんなこんなで、木曽三川流域の自治体における副読本の内容を調べて回ったわけだが、結論としては、出来事としての「災害の記憶」と、備えとしての「防災」が乖離しつつあるということが言えそうだ。

輪中地帯の洪水は、繰り返し繰り返し起こってきたものである。それも、地震と違って一生の間に何度も何度も起こってきたものだ。かつては、過去の災害を学ぶことと、未来の災害を防ぐことは、イコールで結ばれていた。だから、輪中地帯のいくつかの自治体の副読本は、執拗に(?)輪中について学ばせようとしている。

ところが、堤防が強化され、排水機が設置されてくると、「乗り越えられた過去の出来事」として災害が提示されることはあるものの、地域社会のリアルなリスクとして災害が提示されないようになってくる。副読本の限られた紙幅において、「安全」の項目からは洪水が削除され、消防や防犯、交通安全という事項が優先されるようになってくる。それはある意味当然の流れだろう。

全体的な傾向としては、郷土学習という枠組みにおいて「災害の記憶」と「防災」が乖離しつつあるのだが、その流れを加速させるのが市町村合併による「郷土教育の統合」の問題である。

旧自治体がローカルなスケールに基づいて副読本の内容を構成してきたものが、より広域なスケールの自治体として合併されると、災害の危機意識はより希薄なものとなる。川や堤防に近い自治体と堤防から遠い自治体が一緒になり、過去の災害や危機意識は全体から見ると局所的な問題となってしまい、「新しい郷土」として学ぶ対象からはずされてしまうことになる。

そしてさらに、指導要領の改正の影響も大きい。近年では「教える」ことから「学ぶ」ことに主眼が置かれるようになった。副読本の内容も大きく削減され、その代わりに、資料館や博物館、地元の大人などに「取材」しながら「ナマの知識」を得ることが推奨される。

輪中地帯に限って言えば、指導要領の改訂によって「低地のくらし」という単元がなくなってしまったことの影響が大きい。「低地のくらし」=郷土学習という位置づけであったため、「低地のくらしを学ぶ=過去の災害と苦労を学ぶ=防災」という公式が崩れてしまったのだ。

もちろん、木曽三川地域の子どもたちは、今でも校外学習や遠足などで木曽三川公園や千本松原に来たり、旧長島町の「輪中の郷」や、海津市の「歴史民俗資料館」に来たりするようなので、単線的に「災害の記憶」と「防災」が乖離しているというようなことは言えないのだけれど、傾向としては上記のようなことが指摘できるのではないかと考えている。

このあたり、あと2週間で資料の追加収集と読み込みによって、さらに煮詰めていきたいと考えている。

ということで、今からまた岐阜に行ってきます~。

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