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テント村に住み残る 1
輪中地域の研究とは別に、目下、阪神・淡路大震災のテント村をテーマにした論文に取り組んでいる。内容としては、平成15年版の東京都の復興マニュアルを眺めながら、改めて阪神・淡路のテント村の記録を読み返してみたらどうだろう、という構成になる予定だ。
以下、とりとめもなく書いた自分用のメモなので、あまり真剣に読まないで下さい。なお、これはまだ論文ではありませんので、論述の方法や事実関係の確認、語句の統一や文章の推敲等の点において若干の問題点があることをご了承下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
都の復興マニュアルでは、「時限的(仮設)市街地」という概念が随所にちりばめられているのが目に付く。残存建物の活用や応急仮設を地区内に設置することで、住民は住み慣れた地域を離れずに暮らし続け、復興まちづくりに主体的に取り組んで云々・・・となっている。阪神・淡路の反省やら教訓を踏まえた上で、この「時限的市街地」の概念を全面に打ち出しているのだという。
「時限的(仮設)市街地」の事例として紹介されているのが、JR新長田駅南に作られた仮設市場「パラール」である。しかし「住み慣れた地域から離れない」というコンセプトから考えるならば、最も適切な「時限的市街地」の事例は各地の公園等に作られたテント村である。しかしテント村の暮らしは、住環境自体が極めて過酷であったと同時に、行政や地域との対立がクローズアップされる存在でもあった。
テント村について多数の記録が残されているのが長田区と灘区である。神戸市内では、須磨区、兵庫区、中央区、東灘区にテント村が形成されていた。神戸市以外では、芦屋市と西宮市が発行した「震災の記録」おいて、避難所リストの中に「●●公園」等の記述があることから、テント村の存在を確認することができる。
しかし、その他の自治体の記録からは、テント村の存在を確かめることはできない。おそらく、ほとんどの避難者が学校をはじめとした公共施設等、屋根と壁のある場所に避難していったことが考えられる。
いくつかの調査報告では、テント村を形成した住民の多くは「学校等の避難所がいっぱいだった」「学校等の避難所を出ざるを得なかった」「避難所は規則等が厳しかった」等の理由が示されている。また3月になってテント村に暮らす人が増えた、という新聞報道もなされている。つまり、「何らかの理由で屋根のある避難所から溢れ出した避難者」がテント村を形成したと考えるのが妥当である。つまり、テント村とは避難所と対の存在として捉える必要があるということだ。
震災一年目に兵庫県が刊行した記録では、震災直後の避難者数は「ピーク時は1月23日、31万人以上」であったとされる。しかし、避難の実態は地域ごとの被災状況の違いや避難者数の把握時期、把握方法を踏まえなければ捉えることができない。そこで、1995年1月19日から2月17日までの一ヶ月間の避難者数推移について、三つの観点から注目してみる。
まず第一に、避難者数の減少傾向について検討する。たとえば伊丹や川西、明石、西区や垂水区等では、決して被害が小さかったわけではないが、避難者数は震災直後をピークとして漸減していく。これは、余震不安やインフラ断絶による生活不安や食糧確保のための避難者が相対的に多く、自宅に戻ったり被災地外に転出する等によって避難者数が漸減していったと考えられる。
一方で神戸市須磨区~尼崎市では、避難者数のピークを越えた後に避難者が経減らない状況が示されている。これは、多くの被災者が避難所に留まったということであり、避難所から自宅に戻る、または何らかの方法で被災地を離れることが困難な被災者が、避難所にとどまり続けざるを得なかった状況を示している。この点については、石井他(1996)の見解とも一致する。
第二に、避難者数を把握できた時期に関する問題がある。兵庫県の記録は1月19日から示されているが、神戸市内を中心に、震災から数日~数週間を経て確認・指定された避難所が多数あり、実際の避難者数のピークが23日であったという確証を得ることができない。学校等の指定避難所であっても、震災直後の数日間に避難者数を正確に把握することが著しく困難であったことは、当時の学校避難所の様子を描いた記録からも窺い知ることができる。
神戸市ほど避難者数が膨大ではなかった宝塚市や川西市、明石市等では、比較的初期の段階において避難者数が割合正確に把握されていたと考えられる。これらの自治体における避難者数のピークが概ね1月19-20日であることを考えると、須磨区~尼崎間においても震災直後の数日間にひとつのピークがあったとは考えられないだろうか。
(※新潟中越地震では、本震後に発生した震度5-6程度の余震による不安によって避難者が増加したため、本震後にも避難者数のピークが複数回出現している。また北淡町は震災から5日経過した22日がピークとなっている点について、説明できる理由を確認できていない)
そして第三には、避難者数の把握方法の問題がある。西宮や芦屋では、100~500単位の概数による把握が一定期間続いていることや、さらに、神戸市では少なくとも2月23日までは、各避難所から申請された弁当の要求数の合計を避難者数としてカウントしていたことを考慮する必要がある。
インフラが寸断されたことによって、自宅に留まった人びとも避難所に食糧を求めた。そのため、避難所に宿泊している人数と弁当の配布数を区別するために「夜間就寝者数」という数字が用いられるようになるが、神戸市では震災から一ヶ月以上経ってからのことである。
以上のように、ピーク時は1月23日、避難者数は最大31万人以上とされている数字について三つの観点を呈してみた。そこから言えるのは、避難者数推移の数字の裏には避難所の限界や行政の限界という問題を見出すことができるということである。これらの問題点は、避難所の「影」の存在となったテント村に重くのしかかることになる。
つまり1.避難者数が漸減しない地域においては、指定避難所に大きな負担や無理が生じ、結果としてテント村を生み出す背景となったこと、2.避難者数や避難所の把握が困難であったことから、(未認定)テント村と指定(認定)避難所間に大きな格差が生じたこと等である。
震災後の初期段階で、こうした避難所の問題を背景に成立したテント村は、中長期的には、震災復興過程における多くの矛盾や問題点を引き受ける象徴的な存在となっていくのである。
以下、たぶん近々更新(のはず)。
以下、とりとめもなく書いた自分用のメモなので、あまり真剣に読まないで下さい。なお、これはまだ論文ではありませんので、論述の方法や事実関係の確認、語句の統一や文章の推敲等の点において若干の問題点があることをご了承下さい。
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都の復興マニュアルでは、「時限的(仮設)市街地」という概念が随所にちりばめられているのが目に付く。残存建物の活用や応急仮設を地区内に設置することで、住民は住み慣れた地域を離れずに暮らし続け、復興まちづくりに主体的に取り組んで云々・・・となっている。阪神・淡路の反省やら教訓を踏まえた上で、この「時限的市街地」の概念を全面に打ち出しているのだという。
「時限的(仮設)市街地」の事例として紹介されているのが、JR新長田駅南に作られた仮設市場「パラール」である。しかし「住み慣れた地域から離れない」というコンセプトから考えるならば、最も適切な「時限的市街地」の事例は各地の公園等に作られたテント村である。しかしテント村の暮らしは、住環境自体が極めて過酷であったと同時に、行政や地域との対立がクローズアップされる存在でもあった。
テント村について多数の記録が残されているのが長田区と灘区である。神戸市内では、須磨区、兵庫区、中央区、東灘区にテント村が形成されていた。神戸市以外では、芦屋市と西宮市が発行した「震災の記録」おいて、避難所リストの中に「●●公園」等の記述があることから、テント村の存在を確認することができる。
しかし、その他の自治体の記録からは、テント村の存在を確かめることはできない。おそらく、ほとんどの避難者が学校をはじめとした公共施設等、屋根と壁のある場所に避難していったことが考えられる。
いくつかの調査報告では、テント村を形成した住民の多くは「学校等の避難所がいっぱいだった」「学校等の避難所を出ざるを得なかった」「避難所は規則等が厳しかった」等の理由が示されている。また3月になってテント村に暮らす人が増えた、という新聞報道もなされている。つまり、「何らかの理由で屋根のある避難所から溢れ出した避難者」がテント村を形成したと考えるのが妥当である。つまり、テント村とは避難所と対の存在として捉える必要があるということだ。
震災一年目に兵庫県が刊行した記録では、震災直後の避難者数は「ピーク時は1月23日、31万人以上」であったとされる。しかし、避難の実態は地域ごとの被災状況の違いや避難者数の把握時期、把握方法を踏まえなければ捉えることができない。そこで、1995年1月19日から2月17日までの一ヶ月間の避難者数推移について、三つの観点から注目してみる。
まず第一に、避難者数の減少傾向について検討する。たとえば伊丹や川西、明石、西区や垂水区等では、決して被害が小さかったわけではないが、避難者数は震災直後をピークとして漸減していく。これは、余震不安やインフラ断絶による生活不安や食糧確保のための避難者が相対的に多く、自宅に戻ったり被災地外に転出する等によって避難者数が漸減していったと考えられる。
一方で神戸市須磨区~尼崎市では、避難者数のピークを越えた後に避難者が経減らない状況が示されている。これは、多くの被災者が避難所に留まったということであり、避難所から自宅に戻る、または何らかの方法で被災地を離れることが困難な被災者が、避難所にとどまり続けざるを得なかった状況を示している。この点については、石井他(1996)の見解とも一致する。
第二に、避難者数を把握できた時期に関する問題がある。兵庫県の記録は1月19日から示されているが、神戸市内を中心に、震災から数日~数週間を経て確認・指定された避難所が多数あり、実際の避難者数のピークが23日であったという確証を得ることができない。学校等の指定避難所であっても、震災直後の数日間に避難者数を正確に把握することが著しく困難であったことは、当時の学校避難所の様子を描いた記録からも窺い知ることができる。
神戸市ほど避難者数が膨大ではなかった宝塚市や川西市、明石市等では、比較的初期の段階において避難者数が割合正確に把握されていたと考えられる。これらの自治体における避難者数のピークが概ね1月19-20日であることを考えると、須磨区~尼崎間においても震災直後の数日間にひとつのピークがあったとは考えられないだろうか。
(※新潟中越地震では、本震後に発生した震度5-6程度の余震による不安によって避難者が増加したため、本震後にも避難者数のピークが複数回出現している。また北淡町は震災から5日経過した22日がピークとなっている点について、説明できる理由を確認できていない)
そして第三には、避難者数の把握方法の問題がある。西宮や芦屋では、100~500単位の概数による把握が一定期間続いていることや、さらに、神戸市では少なくとも2月23日までは、各避難所から申請された弁当の要求数の合計を避難者数としてカウントしていたことを考慮する必要がある。
インフラが寸断されたことによって、自宅に留まった人びとも避難所に食糧を求めた。そのため、避難所に宿泊している人数と弁当の配布数を区別するために「夜間就寝者数」という数字が用いられるようになるが、神戸市では震災から一ヶ月以上経ってからのことである。
以上のように、ピーク時は1月23日、避難者数は最大31万人以上とされている数字について三つの観点を呈してみた。そこから言えるのは、避難者数推移の数字の裏には避難所の限界や行政の限界という問題を見出すことができるということである。これらの問題点は、避難所の「影」の存在となったテント村に重くのしかかることになる。
つまり1.避難者数が漸減しない地域においては、指定避難所に大きな負担や無理が生じ、結果としてテント村を生み出す背景となったこと、2.避難者数や避難所の把握が困難であったことから、(未認定)テント村と指定(認定)避難所間に大きな格差が生じたこと等である。
震災後の初期段階で、こうした避難所の問題を背景に成立したテント村は、中長期的には、震災復興過程における多くの矛盾や問題点を引き受ける象徴的な存在となっていくのである。
以下、たぶん近々更新(のはず)。
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